宮城の表現は、見えないモノを見させてくれたり、感じさせてくれ、同時にそれ自体が、ピュアな行為でもあることを思い起こさせるきっかけを与えてくれます。 まるで、昔の司祭が、神や霊的なものを見たり、感じたりすることが可能だったことのように。
子供の姿を借りて表出するソレは、微妙な位置にほっこり佇んでいます。それは、あなたの横にいるのです。だから、少しよけてくれているのです。
また、こんな話にもヒントがあります。本来の相撲は神事であって、見えないカミサマを相手に組み合って、五穀豊穣などを祈った。〜と言われますが、本当は、カミサマもたまには遊びたい〜見かけは、土俵の上で、独り相撲を取っている状態です。(今でも、この独り相撲を継承している場所がある)
その普通では見えない、カミサマってなんでしょうか。其処彼処にいっぱいいるナニかだったと思います。たまには空をそーっと見上げてください。ほらそこにも・・・。
そんなナニかが感じられる事を大切に思う日本の風土が、かつてあったことも想像させてくれる宮城の子供(作品)たち。
その描かれるものは“カワイイ”現代・日本人の思想、リアリティでもあるのでしょう。