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タカの部屋 人気写真家鷹野隆大が各界の著名人をゲストに迎えてインタビュー

第5回 公開トーク 宮村周子×鷹野隆大「アートメディアでサバイバル?!」

鷹野隆大がホストを務め、毎回多彩なゲストを迎え、テーマに基づくさまざまな話題を繰り広げる「タカの部屋」。今回は編集者の宮村周子さんを迎えて、「アートメディアでサバイバル?!」という題目のもと、宮村さんが長らく在籍されていた「美術手帖」時代の話や奈良美智さんとのエピソード、独立する経緯、さらに現在とその先について語ります。

出演者プロフィール

鷹野隆大氏

鷹 野 :  今日は編集者の宮村さんにお越しいただきまして、いろいろとお話を伺っていきたいと思います。よろしくおねがいします。宮村さんは「美術手帖」の編集部を経て、フリーのライターで。でも今は、ライターと言ってはいけないんですよね(笑)。

宮 村 : 今は、編集者業がメインになっていますね(笑)。

鷹 野 :  で、ギャラリーも開いている。

宮村周子氏

宮 村 :  開いているというのはおこがましいんですけど、新しく構えたオフィスに展示スペースを設けて企画展を開いたり、いろんなことに手を出してる日々です。

鷹 野 :  というふうに、興味深い経歴をお持ちなので、今日はいろいろとお話を伺っていきたいと思います。まず「美術手帖」の編集部に入って、編集者として活躍されていたときの話を伺いたいんですけど、そもそも美術がお好きだったんですか?

宮 村 : そうですね、絵は子供の頃から好きだったんですけど、実は親が建築関係で、その影響で高校生になる頃までは建築家になりたいなぁ、と(笑)。でも進路を決めるときに建築家になりたいってそれとなく親に言ったら、「女には向かない」みたいなことを言われてショックで、それだったら逆に建築家ができない曖昧な領域である美術の世界に行こうと思って。美術って、数式では解けないじゃないですか。

鷹 野 :  なーるほど。で、宮村さんが手掛けた「美術手帖」の特集ですが、今回お持ち頂いたのはふたつとも奈良さんの特集号なんですね。もちろん奈良さんの特集だけを組んでいたわけではないと思うんですけど、奈良さんに興味を持たれた特別なきっかけは何かあるんですか?

宮 村 : ここで奈良さんの話を出させていただくのも非常に恐縮なんですけれど、奈良さんとは少しだけご縁があるんです。高校生のとき、私がいた学校では美術の授業がなくて、なんとか触れたいと思っていたら、美大志望の親友が名古屋の河合塾という予備校の美大受験コースに行っていて、なんだか面白そうだから一緒に通い始めたんですよ。高校1、2年生向けの基礎科というクラスで、授業のあとに制服着たまま予備校に行くと、ちょっとクセのある面白い子たちが集まっていて、先生から出された「お題」で絵を描いたりしているんです。課外授業の延長というか部活みたいな感じだったんですね。そこには愛知県立芸術大学など美大の学生の方もたくさんバイトで教えに来ていて、そのなかに奈良美智さんがいらしたんです。

鷹 野 :  へぇー!

宮 村 : 高校1年生は切羽詰まってないから、いい意味で遊んでいるような状況で、学校の授業では聞けないすごく面白い話が飛び交っているし、しかもみんな、独創的なものを自由に作っているし。これがアートっていうものなのかと、はじめて同時代のアートを知ったんです。

鷹 野 :  で、その予備校での奈良さんの授業っていうのはどういうものだったんですか?

宮 村 : 授業という堅いものじゃなくて、先生たちが、生徒が作っているものに対して「これはこうしたほうがいいよ」ってアドバイスしてくださるんです。先生はものを作る基本的なところを、同じ目線で一緒にやっていくお兄さんみたいな存在だったと思うんですね。一緒にいるだけで刺激的でしたよ。

鷹 野 :  なかなか楽しそうですね。

宮 村 : 先生方みんなが、生徒たちと真摯に向き合ってくださる特別な場所でした。アートの現状のようなものを気軽に教えてもらえたり、作品を見せてもらったり、先生の個展に行ったりとか、そういう体験を通じて、本来学校がやるべき美術教育のようなものを教えられたかな、と。そのときに奈良さんの個展も初めて観ました。

鷹 野 :  そうだったんですか、奈良さんの当時の作品はどんな感じだったんですか?

宮 村 : 根本的には今と変わらないんですけど、ドローイングを描いたちっちゃな紙切れを袋に入れて壁にいっぱい貼付けていたり、ざっくりしたタッチで描いたペインティングが並んでて。そういうのを観て「ああ、こんな風に自由でいいんだ」って。ただその後、高2の終わりに、自分は結局「作る側」の人ではないな、と悟ってしまったところがあって。ある意味挫折しちゃったわけです(笑)。むしろ人がやってることを見る方が好きというか、そちらに興味が向かっていったような気がします。

鷹 野 :  ある意味「媒介者」のような。

宮 村 : 面白いものがあるんだったら、それについて語れば面白さが倍増しますよね、きっとそういう感覚って、自分がメディアを作るときの大きなモチベーションだと思うんです。で、作り手とは別のかたちで美術と関わりたいと思って、とりあえず受験勉強して大学入って美術史を専攻するんですけど、リアルな状況を体験した自分にしてみると大学の授業は文献主義的で、なんか違うかなぁって。それで、より現場に近いところに行こうと思って、卒業後に美術出版社に入社して、「美術手帖」編集部に入りました。

鷹 野 :  お話を伺っていると、高校時代の奈良さんとの出会いが宮村さんにとって決定的な気がするんですが。

宮 村 : たしかにそうかもしれないですが、他の生徒たちのように親しい間柄だったわけじゃないですし、幸運にも、自分はたまたまそこに居合わせたという感じです。他の先生や同級生からもすごくいい影響を受けたな、と思ってます。

鷹 野 :  入社された頃の「美術手帖」ってどんな感じだったんですか?

宮 村 : 私が入社した90年代初頭って、もうガチガチに外国美術賛美です(笑)。それ以前にも「アメリカ美術の力」みたいな特集をやってたし、日本のアートよりも欧米のほうが素晴らしいのが当たり前。でも、そういうのが、自分にはぜんぜん響いて来ないわけですよ。

鷹 野 :  分かります分かります。

宮 村 : 日本のアート自体も欧米の影響が濃くて、理屈っぽいものが多かった。当時、「作品をいくら見ても、本を読まなければ意味ないから」って人に言われて、のけぞったのを覚えてます。アートって視覚表現じゃなかったの?って。ところがしばらくすると、自分もそういう風潮にあっさり流されて、「ファインアートっていうのはね」みたいなことを語り出しちゃったりして、すごく嫌な奴になってたんです(笑)。

鷹 野 :  案外染まりやすかったんですね(笑)。

宮 村 : 基本的に自分のなかには何もないので、影響されやすいし、染まりやすいんです。で、そんな頃に、ドイツに住んでいらした奈良さんが、ギャラリーユマニテ東京で展覧会をなさって。

鷹 野 :  何年頃ですか?

宮 村 : 93年ですね。「Be Happy」という展覧会だったんですよ。で、アートっていえば論理のゲームだって感じでいたので、「Be Happyって、そんな感情とか幸せ感みたいなことをいっていいの?」って、とまどったんです。奈良さんの作品は高校生のときに、すごい感動した体験があるんですけど、「美術手帖」の編集者として接したら、なんだか気恥ずかしくて、素直に認められない自分がいたんですね。でも、何かすごく引っかかるものがあって、そうこうするうちにSCAI THE BATHHOUSEで展覧会が行われたりって、どんどん活躍されていって。

鷹 野 :  ちょっと話を戻していいですか?「Be Happy」展をやったときの周りの状況や展覧会に対する反応ってどうだったんですか?

宮 村 : まだそれほど知られていなかったので、今のように奈良さんのファンがたくさん集うような状況はなくて、やっぱり業界の人たちや知り合いが来ている感じでした。でも、ギャラリストが奈良さんの目のつり上がった子どもの作品を見て、「かわいー!これ買っちゃお!」って。

鷹 野 :  それって年配の方が?

宮 村 : 若いギャラリストです。そんな風に、活躍されている関係者の方々が、嬉々としてドローイングや作品を愛でて、買っていかれてました。

鷹 野 :  へぇー。

宮 村 : それを見て、またびっくりして。そういう素直な感情を出せるのに、どうしてみんな普段アートシーンを語るときに、カッコつけたような言葉で語ったりとかしてるんだろう、と。

鷹 野 :  とすると、そのころの「美術手帖」は若いギャラリストたちとの間にもズレがあったっていうことですね。今は「美術手帖」とギャラリーとはけっこう近いですよね。

宮 村 : その頃はまだ、奈良さんの作品の面白さが全体的に響いてくるような状況はなかったんです。ホントに最初の奈良ショックだった。でも、90年代ってドローイングの時代ってよくいわれるんですけど、子どもの落書きみたいに本能剥き出しに描いたような作品がだんだん出てきて、そういう自由なスタイルや姿勢への評価がどんどん広まっていったんです。それによって、象牙の塔だったアートの世界が解放されて、外の世界ともつながってきた。奈良さんはその流れをつくった象徴的な存在で、それまでの理屈で固められた閉塞的なアートの状況を打破しなきゃいけないって、最初から気づいていたと思うし、海外の本場のアートを知った上で、日本のアートシーンの矛盾も見えていたんだと思います。だから、雑誌としてインタビューをしに行くと、自分のことも話してくださるんですけど、如何に日本のアートの制度がダメかっていうことを、容赦なく指摘されるんです。「美術手帖」ってその代表なわけじゃないですか(笑)。なんでこんなに言われなきゃいけないんだろうっていうくらいに、自分たちが批判されている気持ちになって、すごいショックを受けたんですね。

鷹 野 :  なるほどね。

宮 村 : かつて教え子だった時間はあるにせよ、今の自分は作品をピュアに見れないし、言語的にうっかり解釈して、解説しようとしちゃうんですね。で、そういう発言をすると、すかさず「だから勉強した人はダメなんだ」って。実際、耳に痛い話ばかりで、ホントに普通にお説教されてる気分でした。体験や実感のともなうものが本物の表現なんだと、改めて教えられましたね。

宮村周子さんが奈良美智特集を編集した『美術手帖』表紙 2000年7月号

鷹 野 :  それで「アメリカ美術礼賛」はよくないって主張するようになったんですか(笑)?

宮 村 : あんなに信じてたのに裏切られた!みたいな気持ちになって(笑)。今はもちろん、フラットに見られるし、借り物でない表現かどうかで作品を判断できるようになりました。そんなふうに正気にかえれたのは、奈良さんのおかげだと思うし、いつも大事なことを教えてもらっていた気がします。本当に感謝しています。

鷹 野 :  「美術手帖」は村上さんの特集号も何回か組んでいますよね。奈良さんとどっちが早いんですか?

宮 村 : だいたい同時期です。2001年がターニングポイントで、村上さんの大個展が東京都現代美術館で開催されたのと、奈良さんの巡回個展が横浜美術館から始まったのが2001年だったんですよ。第一回の横浜トリエンナーレが行われたのも2001年で、いろんな意味で区切りだったなぁ、と思います。

鷹 野 :  「美術手帖」が今の路線へと変わった時期はいつ頃なんですか?

宮 村 : やっぱり2001年前後でどんどん変わっていった。それは美術に関心がある人だけを読者ターゲットにすることから、アーティストが連れてきてくれる一般の外の観客ともアートをシェアできるよう、分かりやすい作りに変えていかなきゃいけないっていう雰囲気になってきた頃ですね。

鷹 野 :  でも、「本物の芸術は欧米にあります」っていう考えを、「日本も欧米もフラットなんだ」って変えるのは、相当に大きな変化だと思うんですけど、よくそんなことができましたね。

宮 村 : ちょうど、村上さんや奈良さんをはじめとする日本のアーティストが、日本人の美意識や感覚を武器にして、世界で活躍し、評価されはじめた時期でした。国内でも日本のアートを支持する一般のファンが増えてきていたんです。編集者によって紹介されるアーティストが変わっていくのは当然で、やっぱり同時代のアーティストを支持したいじゃないですか。その頃は、奈良さんや村上さんをはじめとする、今の日本のアートを代表するスターたちがビッグになっていく過程とぴったり時期が合っていて、そういう人たちを自分たちも本気で応援したいっていう気持ちになっていたし、「美術手帖」だけじゃなくて、「ブルータス」でも奈良さん村上さんの特集が組まれたり、一般雑誌がアートの特集をするようになった時代でもありました。状況的に広がっていったっていう感じですね。

鷹 野 :  なるほど。

宮村周子さんが奈良美智特集を編集した『美術手帖』表紙 2001年12月号

宮 村 : 社内でも私が担当した奈良さんの特集号は「美術手帖」の歴史の中で初めて完売した号だったし、それまでアートについて一緒に話すこともなかった営業部の人や総務の人たちも「奈良さんいいよね」って声をかけてくれて、みんながアートをめぐってハッピーになっちゃったんですね。アートが大衆化されたというか、たくさんの人をつなげてくれて、それはやっぱり、奈良さんや村上さんといったアーティストが作ってくれた状況だと思うんですよ。ホントにすごいなと思いました。

鷹 野 :  ある写真雑誌の人とよく話すんですけど、雑誌の方向性を変えるのは難しいって言うんですよ。彼らには「カメラ雑誌」なのか「写真雑誌」なのかっていう葛藤が常にあって、内部的には写真をもっとジャーナリスティックに扱いたいっていう思いもあるんだけれども、いちばん売れている要素はカメラの性能診断なんですね。結局、カメラ情報で買ってくれるお客さんを切ってしまうことができずに、ずっと同じスタイルで来てる。そういう話を聞いているから、固定客を捨ててまで新しい一歩を踏み出した「美術手帖」はすごいなあと思うわけです。しかも宮村さんはその先鋒だったわけですし。で、その後はやりたい放題やって、「やりきった」って感じで辞めたんですか?(笑)

宮 村 :  どうでしょうか。実際、ずっとやりたい放題やらせていただいて、それはそれで面白かったし、でもその一方で自分の仕事がマンネリ化してるという実感がありました。当時の「美術手帖」はどちらかというと学校教育向けの雑誌で、いわゆる商業ギャラリーの広告ってあまり掲載されてなかったんですね。アートマーケットとリンクしてない。経済とアートがどういう風にかみ合っているかという視点が欠けていて、自分も、アート的な知識はあっても世間とアートをうまくつなげることが出来てないっていう気持ちは持ってましたね。

鷹 野 :  それは自分では仕掛けていくことは出来ない、ってことですか?

宮 村 : 自分は井の中の蛙で、出来る自信がないって思っていました。そういうふうに感じていたときに、会社が新しく始めていたネットのデジタルコンテンツ部門に異動になって、そこでまたすごい衝撃を受けたわけです。デジタルだといろんな意味でコストが掛からないし、つくっていたのが携帯の公式サイトで課金制だったからすぐお金が入ってくる。しかもウェブは、実は誰でも自由に情報発信ができるすごいメディアだと。インターネットは、奈良さんのファンサイトの存在を知ったときに最初の衝撃を受けましたが、情報革命のすごさを改めて目の当たりにして、それまで雑誌に異常に執着していたんですけど、そういう気持ちがなくなりました。

鷹 野 :  そんなに手応えがあったんですか。

宮 村 : 読者が何をどう見てるかっていうこともすぐ分かるんですよ。雑誌にも読者カードがありますが、すごく遠い感じがして。もともとアートが好きで、それを共有したい、アートの話が出来る友達を増やしたいというのがモチベーションのコアにあったので、雑誌を作っているときには誰が読んでいるのか分からない、手応えがない感じがしてたんです。けれども、ネットだとぜんぜん違う。発信者と受信者が直結して、すごくダイレクトだったんです。で、それから営業部とかも経験させてもらって、リアルにお金の流れが重要だってことが今さらながら分かり、なんかそうこうしているうちにもう「研修終り!」みたいな感じで(笑)。

改築中のオフィス、LaiRaiの様子

鷹 野 :  研修期間だったんだ(笑)。

宮 村 : 自分が辞める頃はアートバブル前夜だったので、続けていたら面白かったかもしれないんですけど、自分で原稿を書きたいって気持ちがすごくあったし、組織の不自由さも感じていたので、リセットしていちから出直しみたいな感じでした。でも、やっぱり会社を辞めるのって、めちゃくちゃ不安じゃないですか。

鷹 野 :  そうですよね。

宮 村 : そこでひとつエピソードがあって。ちょっと話が飛びますけど、美術雑誌をやっている以上、自分もアートの買い手でいなければリアル感が出せないと思って、プチコレクターとして作品をちびちび買い集めていたんです。そのときに収集したものがそこそこ高くなっていて。知り合いに「本当に困ったときは、作品を売ればいいんだよ」っていわれて驚いて、ギャラリストに聞いたら本当に高い。もう目から鱗で、もちろん手放す気はないんですけど、気持ちのうえでの保険ですよね。本当にダメだったらこれ売ろう、でも売りたくないからがんばろう、みたいな。好きで集めてた作品たちが自分を助けてくれるという事実に勝手に感動しちゃって。アートってすごい!って。そうしたことが後押ししてくれて、思い切って辞めることができたというのもありますね。

鷹 野 :  それは面白い話ですね。で、そこから独立して。

宮 村 : はい、しばらくは村上隆さんのGEISAIのお手伝いに呼んでいただいたり、フリーペーパーの制作や奈良美智+graf「A to Z」展のカタログ編集をさせていただいたり、あとライター的な仕事をさせていただいたりしていたんですが、だんだん、「自分たちの組織を作りたい」と思うようになったんですね。そんなときに「スタジオボイス」で長らく編集をなさっていた鈴木真子さんが会社を辞められるって聞いて、個人的にも大好きな編集者だったこともあって、じゃあ一緒にやりましょうって。それで出来たのが「来来/LaiRai」という編集ユニットです。で、オフィスを造ったんですよ。いろいろ物件探して、浅草橋のビルの上のほうにちょうどいいところを見付けて、安いし(笑)、ここにしようと。六本木のコンプレックスビルがクローズしてそこに入ってたレントゲンさんやタロウナスさんが界隈に移転してきていたり、浅草橋はアート的にも面白いエリアなんですね。

LaiRaiでのフクモ陶器展の様子

鷹 野 :  はい。

宮 村 : で、ちょうどいいとはいってもあまりにもボロくてそのまま使えないので、リノベして、A to Z的な精神を受け継いだつもりで、お金がないっていうのもあるんですけど、自分たちで壁塗りくらいはやって。で、オフィスやるんだったらギャラリーもやりたいみたいな話も盛り上がって、もちろん本業は編集なんですけど、押し入れだったところを無理矢理展示スペースに仕立てて、もう勢いでギャラリーも始めちゃったんです(笑)。

鷹 野 :  なんだかすごいバイタリティですね(笑)。

宮 村 : これまで2回企画展をやったんですけど、1回目は福本歩さんという陶器を使ったアーティストをフィーチャーした「フクモ陶器:出張展示即売会」、2回目は谷口真人さんの「Your Cinderella」展、それぞれアーティストとの関わりやいらっしゃるお客さんとのやりとりが超楽しくて。

鷹 野 :  なんか充実してる感じですね(笑)。最近の美術の傾向、何か目立ってきていることはあると思いますか?

宮 村 : いい意味で傾向はなくなってきてるんじゃないかなって思います。みんな自由でバラバラだなって。マーケットが盛り上がると売りやすいからということもあってかペインティングがたくさん出てくる、その一方で、反発するかのように、「これどうやって売るの?」みたいな作品も出てくるし。モードの振れ幅はあるにしても、みんながそれぞれある種オタク的に自分の得意分野を掘り下げて自由に発表しているなぁ、という印象はありますね。

鷹 野 :  この先どうなっていくかわからないということですね。我々はそういう先が見えない時代にサバイバルしていかなければならないわけで(笑)、本日はその端緒を垣間みていただくことができれたらうれしいです。長時間、ありがとうございました。

(2009年4月12日 南青山Book246にて/構成:宮村周子、鷹野隆大 執筆:幕内政治)


「阿蘇/日本」1988年 ©鷹野隆大/Takano, Ryudai
Yumiko Chiba Associates/Zeite−Foto Salon

トークの合間のフリータイム

ワイン片手にみなさま歓談中です。

ゲスト紹介

宮村周子(ミヤムラノリコ)

編集者。『美術手帖』誌編集を経て、フリーランスの編集者&ライターとして活動。アートブックの編集およびライティングを担当するほか、アート誌やカルチャー誌に寄稿。2008年、クリエイティヴ・ユニット「来来/LaiRai」を結成し、さらに幅広くアートの編集・企画を展開中。

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鷹野隆大プロフィール

鷹野 隆大(タカノ リュウダイ)
写真家

1963年福井市生まれ、1987年早稲田大学 政治経済学部卒。
1994年より作品を発表。2006年 写真集『IN MY ROOM』(2005年 蒼穹舎)にて第31回
木村伊兵衛写真賞受賞。セクシュアリティをテーマにした作品に加え、最近は都市にも興味を向けている。 個展 2000年「ヨコたわるラフ」(ツァイト・フォト・サロン,東京)、2006年「In My Room」(ナディフ,東京)、2006年「男の乗り方」(ツァイト・フォト・サロン,東京)など。グループ展に2001年 「手探りのキッス 日本の現代写真」(東京都写真美術館 他)、2004年「日常の変貌」(群馬県立近代美術館)、2008年「STILL |MOTION 液晶絵画」(東京都写真美術館 他)、「PARIS PHOTO 2008」(カルーセル・ドゥ・ルーブル, パリ)ほか海外でも展覧会多数。パブリック・コレクションとして、東京都写真美術館、国際交流基金、川崎市市民ミュージアム。上海美術館大宰府天満宮。
作品集として、『IN MY ROOM』(2005 蒼穹舎)、『鷹野隆大 1993-1996』(2006蒼穹舎)。

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企画協力:YUMIKO CHIBA ASSOCIATES / ZEIT-FOTO SALON / BOOK246