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柴田敏雄 / TOSHIO SHIBATA 特集
interview インタビュー works 販売作品
introduction

国内だけでなく海外の多くのメジャーな美術館に作品が収蔵され、世界的評価の高い写真家、柴田敏雄さん。
昨年12月から今年2月にかけて開かれた東京都写真美術館での展覧会(「ランドスケープ」 2008/12/13-2009/2/8)で初めて作品を間近で見た人も多いだろう。
この秋には、写真集の発売や、複数のギャラリーでの展示が予定されるなど、国内での活動も活発化し、「写真家・柴田敏雄」の名前はさらに広く認知されるだろう。
アメリカでは美術館で個展も開き、作品の価格も上昇している柴田さんだが、今回は、若い人たちにも手に届く価格で作品を持ってほしいという気持ちから、
タグボートで特別にポラロイドを使用したモノクロ作品を販売することになった。
世界的に評価されている柴田作品を所有する喜びをぜひ知ってほしい。
作品の販売開始にあたって、柴田さんのこれまでの活動と、作品制作の実際について、インタビューさせていただいた。

(インタビュー・執筆:タカザワケンジ)
■ 今回販売する作品について ※見出しをクリックしていただくと内容が表示されます。

柴田敏雄さんオフィスにて。インタビューに答える柴田さん。
手前は、今はもう造られていないポラロイド・フィルム

TAGBOAT:今回、タグボートで販売される作品はいつ頃制作されたものですか?

柴田:2000年から2004年までです。大判カメラ4×5用のポラロイドフィルム「Polaroid Type55」を使用したシリーズで、2004年に写真集『Type55』(Nazraeli Press)として出版したこともあります。ポラロイドは通常、撮影したプリントが手元に残るだけですが、「Polaroid Type55」は定着/水洗処理をすることでネガフィルムも残すことができます。そのネガからプリントしても、細密で美しいプリントが得られるので、愛用していました。残念なことにもう製造されていませんが。

TAGBOAT:撮影してからの手順を教えてください。

柴田:4×5判のホルダにポラロイドフィルムをセットして撮影し、ホルダから抜いてそのまま保存します。普通のポラロイドフィルムのように印画紙とフィルムをはがしてしまわず、持ち帰って現像処理をします。そうすると、ポラロイドの印画紙に撮影されたイメージと、ネガフィルムができます。長い旅行のときは、ホテルで現像することもありました。定着/水洗のための無水亜硫酸ソーダ液の粉も持って行って、洗面所で溶液を作って定着/水洗し、部屋の中にフィルムを干すんです。けっこう簡単にできるんですよ。シートフィルムとしてはかなり便利なものでした。

TAGBOAT:ポラロイドを使ったことで得られた効果はありましたか?

柴田:当時、メインで使っていたカメラは4×5よりもさらに大きなフォーマットの8×10でした。ポラロイドのTYPE55という種類は4×5用しかなかったので、必然的に4×5カメラにホルダをとりつけて撮影したのですが、8×10に比べてレンズの選択肢が多い。いろいろなレンズが使えます。また、画面を囲む黒い枠も魅力でした。写真のイメージだけではなく、枠の入り方にまで偶然性がある。それと、もう一つ面白いのは、ピントグラスで見た4×5の画面と、実際に撮影されたポラロイドの画面にズレがあることです。ちょっとだけ左側に偏るんですが、画面の端のほうに予期しないものが写っていたりすることがあって、それも面白かった。

TAGBOAT:「予期しないものが写る」ことを面白いと思われるというのは意外ですね。柴田さんの作品には、厳密に構成された写真というイメージがあります。

柴田:計算通りに行かないところが写真の面白さだと思います。通常のモノクロネガフィルムで撮影した場合でも、トリミングすることは滅多にありません。ポラロイドの場合は、黒い外枠までがプリントされるので、よりノートリミングだということが強調されますね。

■ 写真家になるまで ※見出しをクリックしていただくと内容が表示されます。

ポラロイド作品の数々。タグボート販売用の作品を選定中

TAGBOAT:柴田さんは写真を始める前に、東京藝術大学で油画を専攻されていますね。

柴田:最初は画家になるつもりでした。芸大に入って、一年のときは、デッサンばかりやらされていました。油画は二年から描かせてもらえることになっていたんですが、二年になったときには学生運動の影響で学校が閉鎖されてしまったんです。それに、デッサンはそれなりに上達したんですが、ちょうどその頃、写真のように精密に描かれたスーパーリアリズム絵画が出てきた。デッサンに多少の自信はあったけど、あそこまで上手く描けるかというと、とてもとても(笑)。かといって、筆のタッチや味で評価される画家になりたいかといったら、それも何となく違うような気がしていました。だったら、絵を描くことはやめて、ほかのメディアでやってみようと思ったんです。

TAGBOAT:版画をおやりになっていたこともあったとか。

柴田:アンディ・ウォーホールの作品が有名ですが――僕が好きだったのはロバート・ラウシェンバーグだったんですけど――シルクスクリーンでどこにでもあるイメージを複写して作品にしていくということに興味を持ちました。複写なら直接描いていないから、筆のタッチのような味わいが評価されるものではない。描かずに作品を作ろうと思ったのが版画をやろうと思ったきっかけなんです。写真をかじり始めたのもその頃からですね。

TAGBOAT:現実を写すのが写真だと思われていますけど、柴田さんの場合は、実写よりもまず絵画、そして複写による版画作品から写真に近づいていったんですね。

柴田:いろいろ実験してみたんですよ。木版画でスーパーリアリズムみたいな表現はできないか、とか(笑)。藝大で一緒だった辰野登恵子、鎌谷伸一と、シルクスクリーンの教室を作ろうとしたこともあります。

自分が購入するならどの作品にするかな・・・
という気持ちで真剣です。

TAGBOAT:大学院を修了して、映像制作会社(東映シーエム)に入ったんですよね。

柴田:映画会社のCM制作子会社でした。ちょうど僕らが大学生だった70年代前半には、アメリカン・ニューシネマが流行っていて、映画を作ってみたいと思っていたんです。でも、日本の映画会社は斜陽で、映画本編のほうでは就職口がなかった。でも、結局、会社には1年いなかったくらいでやめてしまいました。やっぱり、自分は作品を制作して生きていきたいと思ったんです。そのためには留学したほうがいいと思って、大学で留学先をいろいろ探しました。そんなとき、ベルギーの文部省から奨学金が出て、ゲント市にある王立アカデミーにできたばかりの写真科が留学生を募集していると知ったんです。

TAGBOAT:写真学科に留学生として入学したとはいえ、写真作品はまだなかったんですよね。

柴田:作品としてはなかったですね。いちばん最初にカメラを手にしたのは、大学3年から4年になるときで、美術研究といって、奈良・京都にお寺や仏像を見に行くんですよ。カメラを持って行ったんですが、撮影することの意味がよくわからなかったんです。仏像なんかを撮っても、すでにきれいに撮られた図録の写真があるじゃないですか。それなのに、自分はなんでわざわざ撮っているんだろう? って(笑) 友だちの顔を撮ったりするのは楽しかったけど、自分が写真を撮る意味がよくわからなかった。それはベルギーに行ってもずっと引きずっていて、ヨーロッパを旅行して写真を撮っていても、それは物珍しさで撮った観光写真であって、それ以上のものではないな、絵はがきのほうがよく撮れているんじゃないか、とどこかで思っていました。その頃は写真に対してはネガティブでしたね。

TAGBOAT:王立アカデミーではどんなことを勉強したんですか?

柴田:最初はフィルム現像などの技術的なことばかりだったので、つまらなくて、わりとすぐに学校に行かなくなっちゃったんですよ(笑)。それよりもせっかくヨーロッパに来たんだから、あちこち旅行しようと思って、それなら、せっかくだから写真を撮ってみよう。それが写真で作品を作るようになったきっかけになってしまいました(笑)。

TAGBOAT:カメラは何を使っていたんですか?

柴田:向こうに行ってすぐに4×5の大判カメラを使うようになりました。というのは、写真学科に入るということで、最初に買ったのがエドワード・ウェストンの写真集だったんです。なんでこんなにきれいな写真が撮れるだろうと思って、調べてみたら、8×10のような大きなカメラで撮っているから、モノクロの階調がきれいなんだ、とわかって、自分でも撮ってみたくなりました。写真学科のほうでは35ミリカメラで撮っていたんですが、4×5のカメラを買って、自分で研究しました。その頃はまだ写真のことはよくわからないし、写真集から感じたモノクロの美しさに惹かれていたんだと思います。それに、写真って意外と面白いなと思ったのが、旅行しながら作品ができるということ(笑)。絵にしろ版画にしろ、それまでは部屋にこもってコツコツとやっていたんですけど、写真はすごく開放的。いいなあ、と思ったんです。

TAGBOAT:写真で作品を作り続けていこうと決意されたことには何かきっかけがあったんですか?

柴田:向こうに行って3年目くらいだったと思うんですが、パリのポンピドー・センター前にあった「ザブリスキー」っていうギャラリーに入ったんです。ニューヨークの有名なギャラリーのパリ支店だったんですが、僕はぜんぜん知らなくて、たまたまやっていたのが、エドワード・ウェストンやアンセル・アダムスらが属していた「グループf/64」の展覧会でした。初めてそこで、「こういうプリントを見たかった」という本物のプリントを見ることができました。それまでは、ウェストンもアンセル・アダムスも写真集でしか見たことがなかったんです。しかも、ギャラリーの人が地下の倉庫にあるプリントを見せてくれました。最初に見せてもらったのが、ジョエル・マイエロウィッツの「ケープ・ライト」でした。

TAGBOAT:アメリカの「ニューカラー」の代表的な作品ですね。

柴田:そのときはマイエロウィッツのことも知らなかったんですが、そのプリントがいわゆるタイプCの絹目プリントだったことに驚きました。つまり、ごくふつうのカラープリントをこういうギャラリーで売るということが衝撃的だったんです。これから写真作品をギャラリーで売るようになるんだ、という可能性が、これからも写真をやっていこうという気持ちを後押ししてくれましたね。

TAGBOAT:モノクロ写真の巨匠たちが集った1930年代の「グループf/64」の写真と、カラー写真を作品として認めさせた70年代の「ニューカラー」の作品に同時に出合ったということは、柴田さんのその後の作品を拝見していると示唆的ですね。でも、柴田さんはその後もごく最近までモノクロで作品を制作されています。それはなぜでしょう?

柴田:そのときにカラーもやってみようと思って、ダーストの引き伸し機とカラーヘッドを買いました。当時は両方やっていたんですけど、やっぱりモノクロのほうが自分が表現したいことに向いているような気がしました。当時はまだカラープリントの感材について、色が安定しないとか、保存性に疑問があると言われていたことも影響していたかもしれません。

TAGBOAT:ベルギーに留学後、日本に戻って作品制作をされていますね。そのままベルギーで作家活動を続けようとは考えなかったんですか?

柴田:4年半くらい向こうにいたんですが、写真を撮れば撮るほど根本的な疑問が出てきました。一言で言えば「なんで自分はこんなところで写真を撮っているんだろう」ということです。写真は、レンズを通して直接、被写体と対峙します。自分が知っているもの、自分が属しているもの、自分と関係があるものを撮るべきなんじゃないか。それで、日本で撮ってみたいなと思ったんです。

■ 日本で撮影した「高速道路」の作品 ※見出しをクリックしていただくと内容が表示されます。

横浜横須賀道路 戸塚インターチェンジ 1982 ゼラチン・シルバー・プリント
©Toshio Shibata⁄ Courtesy of Yumiko Chiba Associates

TAGBOAT:日本に戻られて、1979年に新宿ニコンサロンで展覧会(「冬のヨーロッパ」)を開いていますね。

柴田:写真業界のことはまったくわからなかったので、どこで作品を発表すればいいかも知りませんでした。たまたま新宿ニコンサロンで写真展をやっていることを知って見に行って、ここで審査にパスすれば展示ができることを知ったんです。

TAGBOAT:ニコンサロンはカメラメーカーが主催するギャラリーですが、その後、展示した作品を販売するコマーシャル・ギャラリー、ツァイト・フォト・サロンで作品を発表されますね。

柴田:ニコンサロンを運営していたニッコールクラブ会長の三木淳さんが「あなたの写真はいまの日本の写真と違っていて面白いね」と言ってくれて、ツァイト・フォト・サロンの石原悦郎さんを紹介してもらいました。ドライマウントした写真をいっぱいに入れた旅行トランクをガラガラ引いて、石原さんに見せに行きました。

TAGBOAT:当時は、日本では、写真作品として販売するコマーシャルギャラリーはツァイト・フォト・サロンとPGI(Photo Gallery International)の二つだけ。プリントを美術作品として売る・買うということはまだまだ一般的ではありませんでしたよね。

柴田:三木さんも二つのうちどちらかを紹介しようと言ってくれて、名刺に石原さんへの紹介の言葉を書いてくれたんです。なぜ、ツァイトだったのかは聞かなかったんですが。

TAGBOAT:日本に帰って、高速道路の作品(「ディオラマのように」) です。東京都写真美術館の展覧会でも展示されていましたが、このシリーズはどういう経緯で始めたんでしょうか。

柴田:僕が留学していた頃のヨーロッパはまだ十九世紀の雰囲気を残していたんです。ベルギーなんてとくに昔のまま。農村に行くと馬で農耕していたし、僕が住んでいたアパートは石炭ストーブでした。

横浜市根岸 1982 ゼラチン・シルバー・プリント
©Toshio Shibata⁄ Courtesy of Yumiko Chiba Associates

TAGBOAT:画家たちが題材にしてきたような古き良きヨーロッパというイメージですね。

柴田:ええ。僕はもともと東京育ちなんですが、写真を始めたのがヨーロッパだったので、日本に帰ってきて、さて、何を撮ろうか、と困ってしまったんです。それで、思い当たったのが夜景でした。昼の光の下では見えてしまう余分なものも夜ならその場にある光だけになる。高速道路を選んだのは、世界中に似たような風景があるからです。ベルギーにいた頃も、高速道路を走っていると、日本の第三京浜を思い出したりしていたんです。共通項があるけれど、ディテールを見ると日本語があって、そこが日本だということがわかる。まず、そんなところから作品作りを始めてみようと思いました。

TAGBOAT:世界の大都市のどこにでもあるもの。でも、日本なんだ、という重なりとズレが作品の魅力になっていましたね。

柴田:同じエッソのスタンドでも、日本のエッソのスタンドには、よく見ると日本語が書いてある。その微妙な差異が面白いかな、と思いました。でも、いつもそうですが、最初から厳密に考えていたわけではないんですよ。

TAGBOAT:カンみたいなものが働いて、撮影を始めてみるということでしょうか。

柴田:そうですね。こっちの方向だろう、という感覚ですね。

TAGBOAT:「重なり」と「ズレ」は、人工物と自然物の奇妙な融合、共存関係にレンズを向けた『日本典型』(1992)のシリーズからも共通して感じられますね。

柴田:写真って、いるものといらないものも混在しているところが面白いと思います。排除していくんじゃなくて、引き受けていく。好きなものだけに絞っていくのではなくて、好きじゃないものも含めて認識していく。絵を描いていたときとは逆さまのアプローチをしないと、写真を選んだ意味がないな、とも思いました。

■ 代表作「日本典型」ができるまで ※見出しをクリックしていただくと内容が表示されます。

東京都西多摩郡檜原村 1994 ゼラチン・シルバー・プリント
©Toshio Shibata⁄ Courtesy of Yumiko Chiba Associates

TAGBOAT:「日本典型」を始めたのはどんなきっかけからだったんですか?

柴田:最初に撮ったのは神奈川の宮ヶ瀬ダムのあたりの風景でした。鎌倉に住んでいたので、家の周りから、多摩のほうへ撮影に行ったりしていると、同じような風景がたくさんあることに気づきました。東京・神奈川のエリアから始めたんですが、徐々に撮影場所を日本全国に広げていきました。

TAGBOAT:撮影を始めたことで気づいたことはありますか?

柴田:僕は、日本は都会は都会の、地方は地方の風景があると思っていたんです。ところが、80年代に地方へ撮影に出かけてみると、多少の違いはあるけれど、少なくとも、ダムや道路といったインフラは都会も地方もほとんど変わらない。地域差が減っているんだと気づきました。

TAGBOAT:山の斜面にコンクリートが波打つように、あるいは網をかけたように柔らかい曲線を描いている風景は、実際に目にするとグロテスクに感じることもあるんですが、柴田さんの写真のなかではなまめかしいほどの美しさがあります。

柴田:ヨーロッパでは、地形の違いもあって、日本のように山を削って道路を切り開くという景色はあまり見かけなかったんです。こういう風景はすごく日本的なものなんだな、と思ったし、いまの時代を象徴している風景だな、とも思いました。好き嫌いじゃなく。

TAGBOAT:土木工事というスケールの大きな「仕事」の写真でもありますよね。

柴田:僕も絵を描いたり、写真を撮ったり、ものを作ってきたので、規模は違うけれど、ものを作るプロセスに興味があります。とくに、土木工事は規模が大きいだけに興味を惹かれました。自然破壊というより、作っている行為として見たときに面白いと思っていました。

TAGBOAT:しかも、柴田さんはそうした現実の風景から「美」を引き出しています。撮影しているときと、プリントしているときと、見え方が違っている部分はありますか?

柴田:かなり違いますね。三次元と二次元ですから、奥行き感みたいなものが違います。それに、モノクロの場合は、現場で見ているときには大してきれいには見えなくても、写真にしたときにどういうグラデーションに変わるかが重要です。それは写真が持っているメディアとしての力、可能性だと思いますね。現実と写真の間には大きな差があって、それもまた、作品を作る側としては面白い。 ただ、一貫してあるのは、グロテスクな風景であっても、印画紙の美しさや写真の面白さが根底にないと嫌だな、ということですね。逆に、メッセージ性の強いもの、単調なものは選ばないようにしています。一方的なものになっちゃうものより、どっちつかずみたいなものの面白さがいいからです。

TAGBOAT:破壊しているようにも、作り上げているようにも見える。どっちの方向からも読み取れるということですね。見る側がいろんなことを考えることができる可能性がある。

柴田:そうですね。いつも割り切れなさが残るような(笑)。

グランド・クーリーダム・ダグラス郡ワシントン州 1996 ゼラチン・シルバー・プリント
©Toshio Shibata⁄ Courtesy of Yumiko Chiba Associates

TAGBOAT:その割り切れなさは、写真という、現実を元にしているメディア特有のものだとも言えますよね。

柴田:そうだと思いますね。絵画や彫刻のようにゼロから作るものとは違う。つねに場所を借りるような感じがありますから。

TAGBOAT:写真で作品を作ることをやめたいと思ったことはないんですか?

柴田:ありますよ(笑)。たとえば80年代後半です。1979年にツァイト・フォト・サロンの石原悦郎さんに出会って、「あと10年経てば、日本でもプリント作品を売って生活できるというシステムができるよ」と言われて、ギャラリーで作品を発表し始めたんですけど、いっこうにそういう時代が来なかった(笑)。それはもちろん石原さんが悪いわけじゃなくて、そういう流れに世の中がなかなかならなかったんです。僕は1949年生まれなので、90年代には40代。いつまでやってもこれはダメだな。そのときは、本気で写真をやめようかなと思いましたよ(笑)。

TAGBOAT:やめようという気持ちをとどまらせたのは何だったんですか?

柴田:直接的には80年代の終わりくらいに、東京都写真美術館が設立されるという噂があったことと、もう一つは、アメリカのアリゾナにあるCCP( Center for Creative Photography)で、日立がスポンサーになって、日本の写真を買い集めて展覧会(「日本の現代写真展」1989)をやることになり、そこに参加できたこと。そのときに思ったのは、日本がダメでも海外があると(笑)。 その一年後に、東京と京都の国立近代美術館で写真の展覧会(「写真の過去と現在」1990)があり、そこにも参加できました。同じ年に東京都写真美術館が仮オープンし、その年の展覧会(「日本のコンテンポラリー」)にも参加できた。やめようと思ったら、にわかにいろいろな動きがあったんです。

TAGBOAT:90年前後には東京都写真美術館のほかにも、川崎市民ミュージアム(1988年開館)、横浜美術館(1989年開館)、など、日本の美術館が写真作品を収集するようになり、展覧会でも取り上げるようになってきました。

柴田:でも、僕の印象では、状況が大きく変わったのは2000年代に入って。それも、この5〜6年ですね。それまでは写真作品は国内ではなかなか売れませんでした。

TAGBOAT:一方、海外では柴田さんの作品が高く評価されるようになっていきます。

柴田:CCPの後に、ヒューストンのフォトフェスタで、今道子さんと宮本隆司さんの作品といっしょに展覧会(日本の現代写真3人展」1990)をやったんです。そうしたら、アメリカのギャラリー、3〜4軒からすぐに電話が掛ってきました。そのなかからニューヨークのローレンス・ミラー・ギャラリーと契約してから、主にアメリカで作品を発表するようになっていきました。

TAGBOAT:アメリカの観客はどのように柴田さんの作品を見ているんですか?

柴田:日本人なら、ああいう風景は見慣れているから何を撮っているかは一目瞭然ですが、アメリカでは、「何を写しているんだ?」とよく聞かれましたね。自分で作った模型を写しているんじゃないかとか。

TAGBOAT:オブジェのように見えたんですね(笑)。

柴田:すごく珍しい風景を写しているんじゃないかと言われましたね。質感がわからなくて不思議だとも言われます。コンクリートがマットレスのように見える写真を見て、「これは軟らかいのか硬いのか」とか。僕の作品に限らず、写真には現実にあるものとは違ったものに見えてくる、という側面があると思いますね。

■ モノクロ・ポラロイド・カラー ※見出しをクリックしていただくと内容が表示されます。

埼玉県秩父市 2006 タイプCプリント
©Toshio Shibata⁄ Courtesy of Yumiko Chiba Associates

TAGBOAT:東京都写真美術館の展示ではカラー作品の印象が強烈でした。カラーに取り組み始めたのはいつ頃からですか?

柴田:ポラロイドのシリーズの最後の頃だから、2004年頃からですね。その頃はまだモノクロも8×10で撮っていたので、2004年は、8×10のモノクロと、4×5のポラロイドと、4×5のカラーと三つどもえで撮影していました(笑)。

TAGBOAT:なぜ、カラーで撮ろうと思われたのでしょうか。

柴田:ずっとモノクロだけでやっていて、知らない間にモノの見方が固定化しているんじゃないかと思うようになったんです。いろんなものを見過ごしているんじゃないか、と。それに、メディアがデジタル化してきたことで写真の感材がなくなってしまうんじゃないか、という危機感も背景にあると思います。いまのうちにカラーをやっておかないとと思いました。ずっとモノクロだけをやってきて、カラーで撮るなら色の意味みたいなものがないといけないんだろうな、と思って躊躇していたところもあったんですが、それは撮影していきながら考えていけばいいんじゃないか、と吹っ切ることができました。この4年くらいはモノクロでは撮影していません。

TAGBOAT:柴田さんは写真というメディアを使って美術作品を制作しているわけですが、美術と写真の関係についてどうお考えですか?。

柴田:90年代には、アメリカでも「お前の作品は美術なのか写真なのか」とよく聞かれました。美術館が写真を収集して、写真部門の企画展だけではなく、絵画や彫刻と写真が一緒に展示されるような企画が普通に開かれるようになってきました。 僕がいままで作品を発表してきたのはどちらかというと写真の世界ですが、1996年に鎌倉画廊で辰野登恵子と二人展(「ふたつのメディア」)をやった頃から、美術と写真を一緒に展示するのは当たり前だという空気になってきた。僕自身もそうあるべきだと思います。僕としては、美術館、ギャラリーで写真を展示したい。展覧会は写真というメディアの強さを伝えるうえで有効な手段だと思っています。

TAGBOAT:80年代から現代美術のなかに写真を位置づけようという動きが盛んになってきますが、当初は、写真を加工することで美術にするという考え方が強かったように思います。しかし、柴田さんの作品は、最初から演出や加工を排除したストレートな写真ですね。

柴田:80年代の美術で写真を使った作品は、出口のところだけ写真を使っている作品がほとんどでしたね。ストレートな写真は美術としては認めないという風潮があったと思います。そういう意味では、僕にとって80年代は辛かった(笑)。ストレートな写真は美術ではない、と思われていましたから。 しかし、僕はストレートな写真にこそ、写真本来の面白さがあると思っていました。絵や版画、いろんなメディアを試してみたなかで、いちばん簡単でシンプルなシステムが写真だったから。「シャッターを押せばいいんだ」というところから出発して作品を作ることができる。 シカゴで展示をしたときに、アメリカの批評家が僕の作品を「ダムにいるネズミが見た風景だ」と評してくれたんです。つまり、何も考えずにパッと目の前に現れた現実を写し取った作品だ、と。嬉しかったですね。そんなふうに自分の存在を消せたらいいなと思いながら撮影してきましたから。理想は写真から自分の存在が消えてしまうことです。それこそが、これまでの美術にはない写真というメディアで作品を制作する可能性だと思っています。

TAGBOAT:作者の存在が消えて、イメージだけが残ったとしても、見る側はそこからさまざまなことを考えることができます。しかも、写真はそこに「かつて・あった」現実を写し取り、未来へと残していくメディアでもある。そこにも柴田さんの作品の強さの秘密があるような気がします。

(協力:Yumiko Chiba Associates / Zeit-Foto Salon)