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ジャン=ミシェル・バスキア物語
「芸術は長く、人生は短し。」ジャン=ミシェル・バスキア物語

80年代を席捲したグラフィッテ(落書き)アートの風雲児、ジャン=ミシェル・バスキアは弱冠27歳にして風のように世を去った。その伝説的な生涯は、同じくアーティストのジュリアン・シュナーベルのメガホンによって映画化され、話題になったことは記憶に新しい。この春まで全米を回顧展が巡回していたこともあって、再び脚光を浴びている彼の幼い頃からの愛読書の1冊が、解剖学の大著『Gray's Anatomy』だったのは何故か。

芸術と医学との古くて新しい関係について

「芸術は長く、人生は短し」。この古くからある言葉の一般的意味は、100年足らずの人間の寿命に比べ、人間が作ったものであっても、単なる工業製品ではなく芸術作品であれば、作者の死後も大切にされて後の世まで残され、不滅とは言わないまでも数世紀を超える寿命を持つ、ということである。もとはラテン語の《ars longa vita brevis》、つまり、英語では《Art is long,life is short》だが、古代ローマの思想家セネカの『人生の短さについて』(A.D.1世紀)の冒頭の一文を抜き出したものだ。実はこれはセネカが古代ギリシャの医師ヒポクラテスの言葉を引用したのである。「アート」の語源、ラテン語の「アルス」はギリシャ語では「テクネー」、つまり、現代の「テクニック」、「テクノロジー」につながる技術一般を指す語であった。

ヒポクラテスは「技術」を「医術」の意味で用いただけで、「医術を極めるには長い年月が必要であるのに、人生はそれを習得するには短すぎる」と至極当たり前のことを述べたに過ぎない。詳しくは、谷川渥著『芸術をめぐる言葉II』(美術出版社)をご一読願いたい。

医術と芸術の共通点は何か、どちらも人間の歴史上最も古くから人間にとって必要とされ続けている大事な「術」である。生命の尊厳、人間性の尊重、そして人と人とのコミュニケーションが前提となるからである。そしておそらく、いまだ絶えることのない人種差別に対して反対を唱えることができ、その自由を大切にする術といえるのではないだろうか。

肺病が流行していた頃はともかく、今は医者も芸術家も概して他の職業より長寿といえるかもしれない。しかし例外はある、天才画家と賞賛されながら27歳の若さで飛び去るようにこの世を去ったジャン=ミシェル・バスキアだ。仮に医者を志して一浪、二浪し、医学部を卒業してようやくインターンにという年齢での死はあまりに早すぎた。

ハイチ出身の父ジェラルドは会計士、プエルトリコ出身の母マティルダは美術に造詣が深かったという。1960年12月22日、ニューヨークのブルックリン病院で生まれたジャン=ミシェルは当然ながら、生まれつき肌の色は黒かった。幼い頃から母に連れられてブルックリン美術館、メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館を訪れた彼の疑問は、なぜどの絵も皆モデルは黒人ではなく白人なのか、この幼い記憶が終生の彼のテーマとなる。

7歳のとき路上でボール遊びの最中、自動車にはねられ、骨折し、内臓各部を損傷、脾臓を摘出という重傷を負う。入院中、母からヘンリー・グレイ著『解剖学』(初版は1901年、1,257ページ、図版780点の大著)をプレゼントされ、黒人も白人も人体の構造は同じだということを理解した。この本はバスキアの印象に深く残り、晩年といっても25〜6歳だが、解剖学的な作品を多数制作している。退院後間もなく両親の離婚、二人の妹とともに父の元で育てられるが、ハイスクールは転校を繰り返し、ドロップアウト、ついに家出……ニューヨークの街角のあちこちにSAMOの名でグラフィッティ(落書き)を始める。

その落書きを目にした画商のアニーナ・ノゼイに才能を見出され、ギャラリーの地下の倉庫の一角をアトリエとしてあてがい、自由に絵を制作させたのである。めきめき頭角を現したバスキアは数年足らずで一流の作家の仲間入りを果たす。プリミティヴな色彩と筆触によって、イメージと単語をラップのように綴り合せていった。作品の主題は、黒人のルーツ、人種差別、社会問題が中心だが、ルネッサンス以来、画家にとっての必須科目である人体解剖図も幼い頃から接していたこともあって、得意としていた。尊敬してやまないウォーホルとのコラボレーション(共同制作だが、片方が先に描かれたイメージを塗りつぶしていくといった、いわば落書き合戦)の作品展のポスターにボクサーの格好のふたりの写真が使われて話題となったこともあった。

そのウォーホルが1987年2月22日に突然世を去った。深い悲しみから立ち直ることなく翌1988年8月12日、急性混合薬物中毒(アヘンとコカイン)により死亡。享年27歳。

この短い生を駆け抜けた天才画家の生涯が映画化され(画家ジュリアン・シュナーベル初監督作品『バスキア』、1996年、デヴィッド・ボウイ、デニス・ホッパーらが出演)、話題になったが、父ジェラルドの作品使用許可が得られず、映画に登場するバスキアの絵はすべてシュナーベルがバスキア風に描いたもので代用されたのは残念である。

1983年、日本での最初の個展(アキライケダギャラリー・東京、現存せず)に出品されたその年の作品《戦士》(183x122cm)が確か350万円だったと記憶するが、昨年、ニューヨーク、サザビーズのオークションに出品され、なんと180万ドル(約2億円)で落札された。同年作の、両親と幼い自画像を描いた自伝的な代表作《消防士》(1983年、165.5x230cm)が日本の北九州市立美術館にコレクションされているのは喜ばしいことだ。今なら3〜4億円は下るまい。

同じオークションで大作《黒人の歴史》(1983年、172.5x358cm)は516万ドル(約5億7千万円)、価格的にはバスキアが尊敬したウォーホルに匹敵するどころかピカソに迫る地位に到達したのである。

バスキアを最大のヒーローと信じてやまない後続の黒人作家たちは最近目覚しい活躍を見せ始めた。スポーツや映画はもちろん、様々な業種への黒人の進出を反映したものと考えられるが、それら裕福な黒人コレクターだけでなく、白人たちも挙ってバスキアや若手の黒人作家の作品を買い集めている。

日本の美術館では、前記した北九州市立美術館のほか、世田谷美術館、ベネッセアートサイト直島、高知県立美術館が作品を収蔵している。常に展示されているとは限らないが、見る価値のあるものである。映画『バスキア』も主役のジェフリー・ライトをはじめ、ウォーホル役のボウイなどの成りきった演技は説得力があるし、80年代のニューヨークのアート・シーンを見事に再現しており、これも一見の価値がある。

バスキアが亡くなって20年近くになるわけだが、発表当初数十万円だった作品は四半世紀を経て数億円つまり数百倍から千倍に値上がりをしている。これら高額作品が今後数十年内に暴落するとは考えられないし、おそらく20世紀後半を代表する絵画作品として、世紀を越えて大切にされるに違いない。

芸術は長く、人生は短し。

エルノック
ジャン=ミシェル・バスキア/ 677,250円
ヘッド(頭部)
ジャン=ミシェル・バスキア/ 677,250円