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作家プロフィール・販売作品ラインアップ ロベルタ・ベイリーと時代を駆け抜けたパンクスたち
パンクロック誕生! 70S-90S CBGBを駆け抜けたパンクロックミュージシャンたちを撮り続けた

文/麦倉正樹(音楽ライター)

今日まで脈々と続く「パンク・ロック」の歴史は、1976年に端を発したと言われている。60年代の盛り上がりを超え、次第に高度に洗練されていくと同時に、巨大化していったロックという音楽を、再び自らの手に取り戻すための「若者たちの反逆」。
ニューヨークとロンドンが互いに共鳴し合いながら、盛り上がっていったパンク草創期は、まさしくきら星のように数々のミュージシャンが現れた時代でもあった。以下、その代表的なバンドと時代背景を追ってみることにしよう。

右:Micheal Gramaglia
ラモーンズ 
ドキュメンタリー映画「END OF THE CENTURY」の監督とフォトグラファー Danny Fields。
アニエスベー展覧会会場に並ぶベイリーの写真作品。 ロベルタ・ベイリーと代表的なラモーンズの写真と共に。 展覧会会場にて

1977年8月16日、ニューヨークのライヴハウス「CBGB」。わずか5人の客と一匹の犬が見守る中、人知れず「パンク」はその産声を上げた。ジョニー、ジョーイ、ディーディー、トミー――血の繋がりこそ無いものの、全員が同じく「ラモーン」姓を名乗る4人の若者たち――ラモーンズの登場である。
3コードで作られた3分にも満たない短い楽曲を、畳み掛けるように次々とプレイする彼らのステージは、衝撃的なまでにシンプルかつストレートであった。実際、ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンといった偉大なるロック・バンドたちが成熟期を迎えていた76年にリリースされた彼らの1stアルバム『ラモーンズの激情』の評価は、かなり悲惨なものだったという。
「楽曲がストレート過ぎる」、「音楽的に洗練されていない」、「演奏が下手」……だが、逆に言うならば、それこそが彼らの「魅力」であり「革新性」だったのだ。ロックとは、限られた人々のための音楽ではなく、誰もがプレイし楽しむことの出来る音楽であり、衝動の赴くままにギターを手に取り掻き鳴らせば、誰でもロックンローラーになれるのだ――そう、ラモーンズは、その存在自体がひとつの強烈な「メッセージ」だったのだ。

そのメッセージを本国アメリカ以上に熱烈に受け止めたのは、ロンドンの若者たちだった。
ラモーンズの音楽によって自らの衝動を吐き出す「方法」を知った若者たちは、次々とバンドを組み、やがて「ロンドン・パンク」という一大ムーヴメントを巻き起こすことになる。『ラモーンズの激情』の登場から1年後の1977年、ジョニー・ロットンとシド・ヴィシャスという2大パンク・イコンを擁するセックス・ピストルズの『勝手にしやがれ!』、ジョー・ストラマー率いるザ・クラッシュの『白い暴動』、そして>ニック・ロウがプロデュースしたザ・ダムドの『地獄に堕ちた野郎ども』――後に「ロンドン・パンク」御三家と呼ばれるバンドの1stアルバムが出揃ったのは、何も偶然ではなかったのだ。

その翌年にはピストルズの親衛隊だったビリー・アイドル率いるジェネレーションXが1stアルバムを完成させるなど、次々と現れるパンク・バンドたち。こうして「ロンドン・パンク」は、やがて世界中の若者を巻き込んだ一大ムーヴメントとなっていく。

一方、その本家たるニューヨークでは、センセーショナルな「ロンドン・パンク」のムーヴメントに大いに刺激を受けながらも、ラモーンズを生んだ「CBGB」を拠点として、メンバー間の交友関係などに基づく、親密なシーンが形成されていった。
やがて「ニューヨーク・パンク」と呼ばれるこのシーンの中心にいた人物の一人が、リチャード・ヘルである。かつてピストルズの仕掛け人=マルコム・マクラーレンが、ピストルズのメンバーとして勧誘していたという「オリジナル・パンクス」リチャード・ヘル。後にアート系ニューヨーク・パンクを代表する存在となるテレヴィジョンの結成メンバーでもあった彼は、75年に解散したニューヨーク・ドールズ(ヴォーカルはデヴィッド・ヨハンセン)のジョニー・サンダース(G)、ジェリー・ノーラン(Dr)らと結成したハートブレイカーズを経た77年、遂に「リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ」名義でアルバム『ブランク・ジェネレーション』をリリースする。

内省的な虚無感と暴力性を内包した本作は、前衛芸術やビートニクなど、ロンドン以上にアート志向の強かった当事のニューヨークの雰囲気を体現する象徴的一枚であった(その様子は、アンディ・ウォーホルが企画段階から参加した同タイトルの映画『ブランク・ジェネレーション』に詳しい)。

一方、その容貌と破天荒な行動から「パンク界のキース・リチャーズ」と呼ばれるようになったジョニー・サンダースも、「ジョニー・サンダースザ・ハートブレイカーズ」として77年、アルバム『L.A.M.F』を完成させ、翌78年にはソロとして『ソー・アローン』をリリースする。 その他にも、「パンク界のモンロー」と呼ばれたプラチナ・ブロンドの美女、デボラ・ハリー率いるブロンディや、ポエトリー・リーディングからスタートしたパティ・スミスといった女性たちの活躍、さらにはリズム・ボックスを用いた異端のパンク・デュオ、スーサイドなど、「ロンドン・パンク」以上に幅広い音楽的な振れ幅をみせながら、「ニューヨーク・パンク」は、まさしく百花繚乱の様相を呈していくのだった。

あるときはCBGBの店員として、あるときはリチャード・ヘルのパートナーとして、そして何よりも写真家として、そのムーヴメントの渦中にいたロベルタ・ベイリー。彼女の写真には、音楽的な繋がり以上に、「既存の価値に縛られることなく自由に自らを表現する」という「アティテュード」において、緩やかな連帯関係を結んでいた当時のパンク・ロッカーたちの素顔と、未だ世界を魅了し続けて止まない彼らの溢れんばかりの「エネルギー」が、しっかりと刻まれているのだった。