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鷹野隆大 インタビュー

前半:コンセプトについて

後半:写真を撮るということ

「先入観とか、写真以外の情報で膨らませるんじゃなく、そこに実在している人物そのものを見て欲しかった」 写真を撮るということ
--写真は「剥き出しの現実を受け入れ、自分の脳の外に世界が存在することを確認し続けることの作業」だと発言されていましたが、その意味するところを聞かせてもらえますか?
人は見たいものを見たいようにしか見ない習性があると思うんです。たとえば誰かとつき合ってしばらく経つと、この人はこういう人だからこういう付き合い方をすればいいというパターンができあがっちゃう。そうなるともう相手のことなんかほとんど見ちゃいない。ところが実際は全く違う面を持っていて、それがある瞬間に露出した時、みんなびっくりして引くわけです。それは相手に対する思い込み、つまり脳の中のファンタジー世界が崩れた瞬間であると同時に、生(ナマ)の現実が露出した瞬間でもあると思うんです。こうして初めて「目から鱗」というか、自分がファンタジー世界に生きていたことに気付くんですが、なかなかこういう瞬間には出会えない。けれどもカメラは撮影者の意図を越えて、生の現実を写してしまうことが時々あるんです。
--カメラ(写真)が絵画などとは決定的に違う点ですね。
そのとおりです。よく「思ったように写らない」ってみんな言うじゃないですか、思ったように写らないんですよ写真は。思ったように写らないその現実が確実にそこに存在している。それは自分が「こうしたい」とか「こうしよう」とか考えているのとは全く関係なしにそこにある。そういうものを受け入れていかないと、何か誤る気がするんです。人との関係においても、この人はこういう人だと型を決めて、それから外れたら怒るとか、そういう風にしていくと、すごく窮屈だし、相手に対しても失礼ですよね。自分の頭の中のイメージ、さっきも言った「ファンタジー」ですね、の外にある世界を確認する作業っていうのは、日常の中ではなかなか難しいんですけど、写真を撮る時ぐらいは試してみようと。
--自分自身に対してもパターンをつくってしまうことがあると思いますが、自分を裏切っていく、そういう意識はありますか?
そうですね。昔はかっこよく撮ってみせるって思っていたんです。まさにファンタジーの世界をつくり出すためにカメラを使っていた。被写体をかっこよく変換することが「表現すること」だと思っていた。ところが《ヨコたわるラフ》(1996年〜)というシリーズで、撮影後フィルムが余ったので、もったいないからパチパチって撮ったんです。それで出てきた写真があまりにも「生」だった。おっさんになりつつある男のだらしない裸が剥き出しで、そこにゴロッと存在していた。はじめは、「これはいけない、本人も見たくないだろうし、自分も認められない」と思って、見ないようにしていたんです。けれども、ベタ焼きを見返すたびに一つだけポンと飛び出してきてすごく気になるんですね。で、1年くらい格闘した挙げ句、もしかしたらこっちの方がずっと大事なことなんじゃないかって、ふと思って。「現実はすごい、リアルなものってすごい。それをカメラに残せばいいじゃないか」って。それを認めた時、自分の方向性も決まりました。
--「現実の生々しさ」が、写ってしまうのと、表現としてそれを写すことには大きな違いがあると思うんですが、どうしたらその差を出せるんでしょうか?
そうですねえ、‥‥僕自身はゆるく構えて、ギラギラ見ないようにしています。気配のようなものや向き合った時の第一印象を大事にして、構図とかをあまりつくり込まないようにする。相手の意識を受け入れるために、自分の意識で画面を全部埋め込まない。う〜ん、でも結局は偶然に写ってくれるのを待つしかないんですけど。

前半:コンセプトについて