私はこれまで、現代資本主義を巨大なコメディとして捉え、作品を発表してきた。動機は単純だ。「私たちは豊かさとリスクを交換しているのではないか」という疑いを、チャップリンやキートンといった無声喜劇映画の小道具としての「バナナの皮」と、バナナそのものの市場の成り立ちから引用しているのだ。??冷戦終結後、国家や企業、あるいは自治体から個人まで、すべての経済主体は利益最大化を求められ、世界はそこでおこなわれるあらゆる交換関係を疑わないようデザインされ直した。?しかしその結果、未来の選択肢は狭まり、やがて悲劇的な結末を迎えるのではないか――だとすればそれは喜劇以外の何ものでもない。??だが、この動機では作品が売れないのだ。エリートは交換の構造に以前から気づいているし、喜劇の面を見に来た人々は「バナナの皮」の意図を聞いて戸惑い、去ってゆく。??私はしばらく悩んで、作品にポップアートの文脈を組み込むことにした。「映える」姿へと作り変えられた作品は、転ぶ前に気づくことでリスクを回避できる存在となる。つまり「映える」縁起物や厄除けという情動の文化を纏うことで、現在の市場へ迎合させ、そのことで批評性を作品に内包させたいと考えたのだ。??しばらくしてこの作品をSNSに載せると、みるみるフォロワー数は増えていった。?その経緯は、私たちが現在「映えることによる統合」を強いられていることを、改めて突きつけてきた。??私たちの社会は、セクシー、ラグジュアリー、バイオレンス、コメディ、そしてヘイトといった情動によってのみ成立する共同体へ移行しようとしている。それは過去の政治哲学や社会学が紡いできた言語による統合を解体し、私たちの精神を自然状態へと巻き戻す試みではないのか、、??ふと、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』『野生の思考』を思い出した。彼は未開部族の観察を通じて、文明社会の内側に居る筈の我々もまた、主体的な意思を持たず、構造の内側で相変わらず野生の思考をしていることを明らかにした。??文明と文化の装飾でもあるアートが、私たちの野生の思考を露わにするならば、それは再び喜劇である。 そして幸運にも、私の作品は「バナナ」の姿をしていた。??結局、私たちは集団としては何も考えていないのだ。?今は、人類史が悲劇的な結末に向かわないことを願って、バナナの皮は映える姿をしている。