唐突だが、聖人は神ではない。
神や、神の子への「とりなし」を担うのが聖人であるが、わけても聖母マリアは、諸聖人の中でもイエス・キリストの母として天の后の座にあり、熱心に愛されている。
聖母マリアのポーズにはいくつかのバリエーションがあるが、たとえば、本展のアイコンとして渡辺おさむによってデコレートされた聖母像が示すのは、幼子イエスを抱いた聖母子像と人気を二分するポーズである。
この、リラックスして両手を下げた姿は「完全なる受容」を表しているが、聖母子像が「強い母の記憶」ならば、受容の聖母は、包み込むような「甘い母の記憶」につながっているのではないか。
それは、罰することなく、裁くことなく、ありのまますべてを包み込む理想的な母の姿である。
ヨーロッパ世界最大のキリスト教の聖地のひとつであるフランス/ルールドは、聖母マリアの奇跡にちなむことから聖母信仰の一大拠点ともなっている。
私は三度かの地を訪れたが、熱心な聖母信仰者が列をなす一方で、あの気高い包容力を複製し蕩尽の対象とする土産物をあきれるほど目にした。
完全なる受容のポーズの聖母を象った小像、聖水用のボトルから、ステッカーにキーホルダー、マグカップ、用途も必然性も不明なアレやコレ…。
聖地のポッピズムというのは、どこか温泉場に近いものがある(ルールドも聖なる浴場ではないか!!)が、この聖俗の渾然一体となったどこまでもポップな空気は、日本人の精神性や気分にもよく馴染むのではないだろうか。
ところで、ポップであるということは、当然普遍的である、ということだろう。
キリスト者でなくとも、聖母マリアの姿に慈愛を感じない人はいないのではないか。
だが同時に、ポップであるということは最大公約数的でもある。
普遍的であるがゆえにユニークネスの感じられなくなってしまった聖母マリアの姿を、しかし渡辺おさむならば特別にしてしまう。
無論、あの精緻なフェイク・スイーツのデコレーションで、である。
「クリームが、やがて世界を覆い尽くしていく―」。
渡辺おさむのスイートでハッピーなコンセプトは、自身今年初となる東京での個展『マリア様が見てる』展で、またも我々の眼福を存分に満たしてくれる。
母性と受容の理想像である聖母マリアの“大衆化した抜け殻”を、気の遠くなるように緻密な作業で作り出されたフェイク・スイーツ―ホイップクリームやマカロン、クッキーやシロップ漬けのフルーツ―でデコレートすることで、やさしさややわらかさ、赦しや包容/抱擁の記憶やイマジネーションを、観るものに味わわせてくれる。
実物よりも本物。
渡辺おさむの、目で堪能する極上のスイーツに見かけ倒しはなく、そのすべてが確実に美味しい。
かつて「○○はママの味~♪」という名キャッチフレーズがあったが、渡辺おさむの手にかかればたちどころに、“聖なるママ”に封じ込められた甘い記憶がハッピーな奇跡を起こしてくれる。
渡辺おさむの「甘い世界戦略」が、どう受胎=コンセプシオンするか、ぜひその視覚の味覚で目撃していただきたい。