これまで、現代資本主義をコメディとして捉え、作品を発表してきた。
それはつまり以下のような動機によるものだ。
私は長年、「私たちは『豊かさ』と『リスク』を交換しているのでは無いか、」という「疑い」を持っていた。
冷戦の終結によって世界が資本主義に統合されて以降、個人から国家に至るまでのあらゆる経済主体は利益最大化の責任を負うようになった。そこでは誰もが、「豊かさとリスクの交換」に関わりながら生きてゆかなければならない。だとすれば、社会はそれに関わる「疑い」を秘匿し、そのことを認知させ難いよう世界をデザインし続ける筈だ。しかしその結果、私達の将来の選択肢は少なくなり、その為に何か酷いことが起こるのでは無いか、、もしそうだとすれば、それは手の込んだ巨大なコメディだ。
しかしだ、この作品コンセプトでは作品が売れないのだ。
「バナナの皮」の姿をした作品をハッピーなイメージだけで見に来た人は、私の説明を聞いて、相当に困った顔をして去ってゆく。つまり私の制作動機が私の作品を販売する為の最大の障壁となっているのだ。
私はしばらく苦悩して、作品を突き抜けてハッピーな姿に作り変えることにした。いわば、現在のアートマーケットに迎合する形にしたのだ。もちろん作品の制作動機も作り変えた。
本作は「映える」姿をしているので、踏んで転ぶ前に「バナナの皮」の存在に気が付きますよね、だから本作は失敗を避ける為の「厄除け」の役割を果たしますよ。「縁起物」ですよ。という具合にだ。
ただ当然、この変更にあたっては、本心では多少のコンセプトが(面倒なことに、)ある。
今、GAFAの提供する新しいメディアプラットフォームに世界が統合されてゆくなら、それはInstagramやTikTokのような「映え」を目指す非言語メディアに人々が没入してゆくということである。すなわち、言語と理性による統合では無く、より純粋な情動、セクシー、ラグジュアリー、バイオレンス、コメディといった本能の動揺にのみ反応しながら生きてゆく大衆が、改めて、より強烈に作られることになる。そのような疑いを作品化する為に私は「映える」作品を作ることにした。
今、私はここまで書いた時に、レヴィ・ストロースの「冷たき熱帯」「野生の思考」を思い出した。彼は未開の部族の観察を通じて、それまでの政治哲学が紡いてきた文明社会という物語を打ち壊し、私達に主体的な意思は無く、構造の内側で相変わらず野生の思考をしていることを明らかにした。
そう考えた時、私は私の作品が「バナナの皮」の姿をしていることに幸運を感じた。
作品が、構造の奴隷として今も野生の本能の内にある私達自身を顕にしてくれるなら(それはアートが文明という装いを取り払うことである。)幸いである。
そしてもちろんそれはコメディだ。
最後に、改めて書いておく。
以上のような経緯で、本作は「縁起物」「厄除け」である。と、