THE BOOK OF TEA
軽薄さが意図を補完する
疑いを形にする為に、私は室町時代以降の著名な日本画をトレースし、現代的なメディウムで再構成した本作品シリーズを制作している。
この作品タイトルは、岡倉天心の「茶の本」からとった。
岡倉は鎌倉時代から室町時代にかけて「日本の美意識は完成した。」と唱えた。それは南宋が滅んだ際に渡来した技術者や僧侶を通じて日本にもたらされた様々な価値の変化によって完成したというのだ。しかしグローバリゼーション以降の変化の中で、あるいは誰もが利益最大化の責任を背負わされたこの20年程の間に、その美意識の表層だけが残り、その下底に流れた何かが、失われたのではないか、、その為に私達はもはや異文化を見るようにしか、「日本の美意識」を見ることが出来ないのではないか、という疑いを私は持っている。
極端な言い方をすれば、「日本の美意識」は社会規範の上に成立していた。すなわち社会という概念を物語と制度によって伝承し、贖えない価値観を習慣・習俗として共有する構造の上位に、侘び寂びや、ある種の諦念を存在させたその設計が「日本の美意識」を成立させた。
しかしこの20年程の間に起きた、グローバリゼーション、デジタルイノベーション、投資・投機の社会化という3つのイノベーションは、フーコーが『監獄の誕生 監視と処罰』(1975)の中で述べた、あるいは東浩紀が『自由を考える』(2003)で指摘した、「物語の伝承と規律の訓練によって自らの内面に規範を持たせる構造」から、「管理された環境の中で刑罰やペナルティを避ける為に規範へ従う構造」へ、社会規範を変化させた。
私はかつての時代の絵を見る時に、もはや永遠に失われたものを見ているという確信を持っている。かつて、「既に完成した美意識」が存在したのであれば、それは完成を綻びさせる変化を拒絶した筈である。しかし拒絶はすり抜けられた。
今は、もはや私自身にも、その価値を理解出来ないまま、その表層のみを描き写すしかないのだ。そうでなければ、「それ」を描いているとは名乗らないし、まさか「茶の本」からタイトルをとるような事はしないだろう。