森に想いを馳せることがあります。
それは現実に存在するどこかの森ではなく、この世のどこにもない、青々とふくらんだ観念上の森です。
私は現在、渋谷で暮らしています。
代官山にアトリエを構え、散歩は麻布や六本木、そして時間を作っては国会前や銀座の方まで自転車を走らせながら作品の構想を考えています。
東京の大都会に包まれる日々、ふと気が付くとあらゆるものを情報として見るようになっていました。中でも特筆すべきは食事です。肉を食べる/ジャガイモを食べるなど、食材への強い実感を持って食事することはほとんどなく、例えば今回は恵比寿でタンドリーチキンの美味しい店、今回は面倒だからマクドナルドのポテトなど、「どこで/だれと/どんな」いわば座標情報のように食事を捉え、食材そのものというよりかは食事の座標的な情報を体内に取り込んでいました。
そんなある日、コンクリートで端正に舗装された道を何気なく歩いている時、
頭で考えることと自身の肉体とが別のもののように乖離してゆき、思念ばかりを使って生活していることに気が付きました。
冒頭に登場した「観念上の森」という話に戻ります。
自然の中に包まれて(包むというほど自然は生易しいものではないですが)いると、そこに生えている樹木や足元の土、石、虫、視界に入るありとあらゆるものと自分自身とに大した差がないことを実感できます。
そこではすべてがすばらしく、裏を返せばすべてのものに全く価値がない。
森の中、川を流れる水と自分自身とのあいだに大きな差異が無いことを実感したとき、いままでは思念が先行していた自意識に、肉体の存在が浮かび上がり、強く実感できるような感覚をおぼえます。
頭と肉体をリンクさせるため、私はたびたび観念上の森へと訪れ、自らの身体感覚を取り戻そうとしています。
多肉植物は、
薄い葉をもつ植物とは一線を画し、その肉感に生々しい存在を感じさせます。まるでひとの指先やくちびるのような…。
都会の洒落た店に多肉植物が飾られているのを見るたび、私は観念上の森に想いを馳せるのです。自然を忘れさせる都会に包まれながらも、その包みを解いて森へと誘われる。ふよふよと豊満な肢体をもつ多肉植物は、都会に仕掛けられたトリガーのようなものです。